自称「軍艦島の元島民」がでっちあげた「徴用工の奴隷労働」

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自称「軍艦島の元島民」がでっちあげた「徴用工の奴隷労働」――
訴えを起こした グ.ヨンチョルって誰?
島民は誰も知らない   不思議がいっぱい
              デイリー新潮 加藤康子の文書参考

韓国の徴用工訴訟が止まりません。
70年以上前の出来事ですから、審議の程はわかりません。

只、解っている事は、訴訟を起こされている方達の訪日時期を調べると、当時日本は韓国より賃金が良く、好待遇だった為日本で働きたいと願う人が多すぎて、訪日を制限していたそうです。

この事は多分、公文書などの証明が出来ている事と思います。日本の公的施策ですから。このことに対しての反対意見は出て来ていません。
当時二等兵の給与が六円だった頃、軍艦島で働いていた朝鮮人給与は118円だった賃金明細書が残されているそうです。

私的には、この問題は某国のゆすりたかり文化だと思っています。

韓国では「軍艦島の真実」を描いた映画が上映されました

そこでは朝鮮人を無理やり働かせ、奴隷の様な過酷な作業と、拷問等が繰り返され凄惨な限りを尽くされたと表現されているそうです。
目一杯働かせたい労働者に拷問をし、労働力低下をさせるなんて考えられませんが。

当時親に呼び寄せられ、小学生として来日し、6年間軍艦島で生活した具然喆(グ・ヨンチョル)。
わたしが体験した事実を証言しますと87歳の老人が公然と立ち上がったそうです。
強制徴用で連行されたひとたちは、日本の無慈悲によって、その苦痛を口では言い表せない。凄絶な人生、足枷がなかっただけで奴隷でしたと。
「中ノ島という小さな島があって、そこで死体を焼く煙が日に1、2回必ず立ち上り、火葬されるひとたちはみんな朝鮮人だった」そうです。

2015年7月 
(一財)産業遺産国民会議は、戦時中の事業現場や暮らしについて
(軍艦島)端島について元島民たちによる「真実の歴史を追求する端島島民の会」と共に、全国の元島民70人余の証言を集めました。

元島民の思い出の中の端島の人々は、口々に、朝鮮半島出身の友達と一緒に学び遊んだ思い出や、汗を流して働いたことを懐かしそうに語っています。

グ・ヨンチョル氏は彼の一代記で
「熊本は、海をはさみ端島からはっきり見渡せる場所であった」と書いていますが
当時を良く知る島民は皆一同に、絶対見えないや間違ったって見えないといっています。
この事は今でも証明されます。

また、とんでもない事をいっています。

「(朝鮮人たちは)動物の檻と変わりがない合宿所に集団で起居しながら、毎日迫りくる死の脅威にさらされていた」

「(終戦後)朝鮮人は、彼らが連絡船で夜逃げしたことを知った。島に残ったのは朝鮮人と沖縄人だけだった。実に奇怪な状況であった。大人は皆、日本人が去ったその夜にとんでもないことがあったのだと疑ったが、よもや千人をも虐殺するなど、純朴な朝鮮人の想像をはるかに超えることだった。日本人が中国人だけを坑内に閉じ込めて入り口を爆破して皆殺しにしたのではないかと疑うようになった」

1945年8月の終戦前後に、端島において、千人の人間が虐殺されたなどという事実は有りません。
外務省が終戦の翌年に作成した華人労務者調査報告書(三菱高島礦業所端島坑)には、島内で就労していた華人労務者全員(183名)を社船にて、佐世保で米軍に引渡したと記録が遺っています。

終戦を端島で迎えた元島民たちに聞いてみると、島民全員が千人虐殺説に「絶対にあり得ない」と口を揃えて反論しました。
また、終戦前後、端島での騒動や混乱の記録はなく。同じ島出身者なのに、なぜこのような出鱈目な話がでてくるのだろうと。

グ・ヨンチョル氏は
「朝、登校中に見た光景といえば、食料を得るために皿をひとつ持って列をなしていました。(略)その横には日本の軍人が棒を持って立っています。その前を頭も首もあげることもできず、皿だけを持ってわずかな食料を得ようと列をなしている様子を見て、あまりに凄惨だと思いました」(民主労総での演説)

この証言に元島民は
「皿を持って、道路端で、お涙ちょうだい、おかずちょうだいって、こういうバカげたこと、さすがに三菱たるとこは、そういうことは許可せんですよ。見たことない。日本軍の兵士が、労務者の食事の監視をした事実もありません」

と反論します。
端島では、独身労務者の食事は寮の食堂で提供されており、道端で配膳することはなかったそうです。

またグ・ヨンチョル氏は
「登校途中の道端に労務者事務室があります。そこから来る日も来る日も悲鳴と叫び声が聞こえます。つま先立ちで窓から覗くと、(朝鮮の)青年たちを2~3名コンクリート塀の前にひざまずかせ棒で叩いているのです。『助けてくれ!』と叫んでいます」(民主労総での演説)

これに対しても、「端島のどこで、そういうふうな状況、状態が発生していたのかその場所を証明教えて欲しいと島民の声です。私達は端島で見たことないから」と。

「中ノ島で朝鮮人の死体を焼く煙が日に1、2回必ず立ち上った」という発言には、終戦の年の4月まで端島炭鉱の測量部署に勤めていた松本氏が、

「発生した事故の現場監督が会議室に呼ばれて、事故の状況を報告せにゃいかん。それに基づいて、測量は、現場検証に行くわけです。こういうふうな状況でこの作業員が亡くなったということを、図面に描いて、しかもそれを文章化して、当時の鉱山監督局に変災(報告)書を書かにゃいかんのです。1日に一人も二人も死んだとなったら、私ども、それにかかっておらんばいかん。そういうことはまずありえん」

 と否定。インタビューの終盤、

「真実は一つしかないんですよ。なぜこんないい加減な証言につきあわなければならないのか」

2019年2月4日、元島民の方々に参集いただき、皆さんに写真や映像も再確認して貰いました。グ・ヨンチョル氏は映像でも書籍でも「1939年に9歳で端島に来て、6年間住み、成績優秀で学校で級長だった」と話しています。
集会には来られない方にも事前に資料を渡し、同級生や先輩後輩にも確認をして貰いました。会に参加された方も、参加できなかった方も、誰もグ・ヨンチョル氏の名前も顔も覚えておらず、その存在すら知らないといます。

島内には小学校は一つで、5~60名の生徒が居り、6年間も暮らし、かつ成績優秀で学級委員をしていた友達の名前を、誰も知らないなんてありえません。グ・ヨンチョル氏ってどんな人なの。

3時間以上議論し最後に端島で生まれ、戦時中の端島で少年時代を過ごした在日韓国人の鈴木文雄氏がマイクをとりました。

「(居住歴がある)実在している人の自分の体験談とかであれば、それは親身になって聞かないといけないでしょう。グ・ヨンチョル氏の場合は(居住歴に関して)実在に疑問がある訳ですから、抽象的なことを色々と述べている訳ですけれども、それに対して彼の意見を尊重するというのは、まずあり得ないと思うのです」と語りました。

鈴木氏の両親は慶尚南道の出身で、父親は坑内で伍長として働いていた。氏は当時を次のように振り返ります。

「戦時中に端島ではひどい目におうたねっていうような話なんか、全然聞いてないです。もう周囲の方たちも、皆、いい人でね。そんな悪い、負のイメージありませんしね。地獄で、殴られるリンチが多い、そういうような本当に地獄の島だったらそういう姿を見せるために(家族は)まず呼ばんでしょうね」

 会に集まった人は皆、グ・ヨンチョル氏について同じ事を考えていたようでしたた。加地氏は、「これはもう端島を知らない人が想像で書いたと思うんです」と言い、松本氏は「何か組織がかったものがあると。グ・ヨンチョルさんそのものは、(組織に)利用されとる。そういう感じを受けました」とまで話していた。
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名簿にもなく、元島民の誰もが知らないと言い、証言も元島民と全く食い違うグ・ヨンチョル氏。一体何者なのでしょうか。

1950年に朝鮮労働党に入党し、米軍に対する破壊活動で捕まり、20年の服役を経験し、現在は、1997年韓国大法院から利敵団体と認定されている団体の役員を務めている活動家の顔を持っています。

日本も、軍艦島問題は民間団体任せではなく、国として当時の文書や証言などをまとめ、グ・ヨンチョル氏との食い違いを正して行かなければならないと思います。

相手は国ぐるみでのでっち上げをしょうと画策しているみたいですから。

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投稿者: resuto134

ごく普通の66歳既婚男性 気になったニュースを自分なりの解釈で、中立を心がけています

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